石材新聞コラム
石材新聞アーカイブ

ここでは日本石材工業新聞・永久保存用の記事原稿をご紹介します。

池上 年氏
石灯籠の観賞 岡崎石造美術研究所 池上 年
十、むすび

 灯籠は仏陀に対する献灯の具として輸入し、神に捧げる灯明の具として伝播し、僅かに照明の具としてその俤を存していた。
 仏具としての機能を失っていたその灯籠の姿が美を求めている人の目にとまり、その人の心を照して新しい用途を発見したのが、失意の武士であった。
 亡を得ない武士の生活は全く、神に捧げられた灯明が風前に明滅する姿そのものであった。この閉寂なる気持ちをそのまま露地に移して見ると心の灯台となる。
 昔の人間教育は仏教によって縛られていた。それ故、武将も得道すれば僧となり、庵主となって茶道の宗匠ともなることが出来た。
 郊外の石灯籠を露地に移して、灯火を入れて見ると、それは全く己が心を照らす灯明となる。かくして先ず露地灯籠が盛行する端緒となった。これが若し単なる灯火であったなら心までは照らさなかったであろう。そこには献灯の具としての器形が色々の意味で仏教精神を表現しているからである。
 現在の庭の灯籠に光源を入れたとて、照明とはなるであろうが、心の暗を照らすなど到底考えられぬ。それは照明のことしか考えていないため、唯目先が変っているに過ぎない。灯籠の形の意味をよく弁えて、その根本を表現するとき、それは単なる器具ではなく、創作当時の作者の意志までも表現出きる。何れにしても崇仏の精神が充分に形の上に造顕されている灯籠は、造灯の精神に添ったものであり、存在の目的に叶うものである。
 銅鐸や埴輪をプラスチックで作れば、観賞にはなるが、生活とは直結しない。ところが石灯籠は欠失を補い復元することが出来るので、本当に復元文化財として観賞することが出来る。単なるオブジェとしての灯籠でなく、今少しく過去の文化を味わい得るような復元作品を各地に置いて観賞し、心の糧としたいものである。(終)

―日本石材工業新聞・昭和40年4月15日号より―

九、書院灯籠と廟前灯籠

 先達の唱導と大衆の追従の間には差異がある。天下泰平となり茶道によって客を遇しようとすると茶席よりも書院の方が万事都合がよい。自然に書院が発展し、書院の庭が発達することとなる。書院の庭は所謂築山泉水で、縮景、借景、舟遊、逍遥に適するようなものも営まれたが、そこに用いられる灯籠は唯オブジェとしての存在で、心の糧となるような何物もなく重要な場所は与えられながら無意味の存在となってしまっている。そこに求められるものは伝統のある彫像であろう。
 書院灯籠とほぼ同じ時代に発生したものに廟前灯籠がある。それは祖先崇敬のために神社に捧げられた灯明が、百年以上に及ぶ戦乱の国を統一して、神と仰がれた偉人の廟に捧げられたものであるが、美的に装飾されても鑑賞が目的ではなく、多分に政事的の意味も含まれていたためか、どことなく共鳴し難いものがある。

―日本石材工業新聞・昭和40年4月15日号より―

八、数奇屋と寄灯籠

 数奇屋を建てる時、完成に近づくと、先ず第一に手水鉢と灯籠を物色しなくてはならない。『築山庭造伝』などによると、珠光形、紹鴎形、宗易形、というものがある。その形から見ると、それは村田珠光、武野紹鴎、千利休の創作と考えられる。珠光形は瓢箪(ひょうたん)のような格好で、簡単ではあるが従来の石灯籠の概念の全然ない、本当に石灯籠を創作している。
 紹鴎は珠光の弟子であるが、紹鴎形は珠光形の火袋と竿の連続しているところに段をつけている。火袋と竿のところを区別すると一歩従来の石灯籠に近づくので平凡となる。千利休は紹鴎の弟子で宗易と号した。宗易形の石灯籠は六角形の灯籠を省略しただけで、唯献灯の具と言った感じをなくしている。
 これ等を見ると当時の宗匠は皆自分で灯籠の創作を試みたことが推察される。しかし創作した白々とした新しい灯籠は庭の添景としては調和しなかったであろう。その他の宗匠は灯籠などなく創作とも、種々の廃物を積み上げて灯籠に見立てた方が周囲の環境とよく調和するので、専らこの法によったらしい。
 数奇屋は前にも述べたように、廃物を利用した材料によって、侘び住居の風情を表現しようとするのであるから、新しいものよりも錆びたものの方がよく調和する。  これ等のことは文献に残っていないが、実物は相当に遺存しているので、利休の遺愛品などを見ると全く製作中に作者と対談している感を生じる。以下、少し実例について述べることとしょう。
 先ず第一に、利休の寄灯籠と呼びその遺愛品と伝えるものが、京都・藪内家燕庵にある。その竿は板五輪卒塔婆で風空輪のところで折れたものを切り直して竿に改造している。その水輪の部には三尊仏を造顕し、地輪の部には梵字が彫刻してある。これ位の板五輪はその例が少ないであろう。その上の中台は灯籠の中台ではなく、石塔の返り花座と見られる。
 この灯籠では火袋だけが灯籠の部分品で、この上の笠も他の石塔の笠、その時代は最も新しく、造立後間もなく無縁墓となって、灯籠などに用いられたものと考えられる。いずれにしても灯籠の部分が石質も違えば、製法も異なり、一つ一つ時代も違っているので寄せ集めた見立て灯籠であることは疑いの余地はない。
 織部灯籠は古田織部の墓前にある灯籠を形どったものといっているが、古田織部が見立てた愛好の寄灯籠を墓前に置いたと考えれば首肯される。その竿は板五輪の廃物を利用したもの、地蔵の蓮華座は埋めて見えないようにしている。
 中台以上は最初は普通の神前灯籠のそれをそのままに用いていたが、後には多少茶庭に適するように変形したものもある。この形をうつしたものを織部灯籠と呼んでいる。
 大徳寺孤蓬庵に小堀遠州の寄せ灯籠と伝えるものがある。寺では日本、唐、天竺三国の石を寄せ集めたものと言っているが、誰が見てもわかるであろう。湯呑みを伏せたような形は宝塔の塔身で、正面には仏像を彫刻し、他の三方には蓮華座の上に種字を彫刻している。仏像にはまだ彩色の残っているところが見える。その上の中台は多層塔の笠を仰向けにしており、その上火袋は宝篋印塔の基壇を底から刳(く)り抜き、格狭間の所を火口としている。塔身に接するところには返花台があり、よく見ると戒名や没年の永正二年などが読める。
 その上の笠は五輪塔の水輪の破損した部分を取り去っているが、まだ四方に弥陀の種子の下半部が見える。その上の宝珠も五輪塔の風空輪で、この部分にも種字の彫刻した跡がある。小堀遠州が墓地に行って、無縁墓の中から石塔の残欠を物色し、積み重ねて見ては格好のよい方を持ち帰ったものであろう。当時の宗匠は皆得道しているので、無縁墓などかえって供養になるとでも思ったのであろう。
 国立東京博物館内、六窓庵の湯谷灯籠もまた金森宗和の寄せ灯籠と伝えている。地輪は最後に捕ったもの、竿は灯籠の竿の折れた長い方を切り直したものであるから両端に節がある。中台は灯籠の地輪を改造し、火袋は鶴ヶ岡八幡宮の灯籠の火袋と言い、二匹の鳩が向き合っている。笠は他の灯籠の中台を伏せて用い、宝珠は受花の上から折れたものを切り直して用いている。これには墓石の部分はなく、全部灯籠の残欠で、一墓の灯籠に見立ててある。
 外露地の灯籠は神社の奥院などの路傍にある献灯の風情を表現したものであるから、真面目な工芸美を備えたものとし、これに対して内露地の灯籠は侘び住居の風情を数奇屋風に表現しているので、それに相応しく、多くは地輪のない生け込みとして、安定感を少なくし、丸い部分もあれば、四角のところも六角のところも八角のところもある。しかも、それらが破損した上に苔むして為体(えたい)の知れぬおどけたものとし、来客を驚かすものがよいとした。
 それ故、石灯籠を見る場合、外露地と比較しないで、ただ内露地の灯籠だけを見ると全く物数奇、数寄物、茶人好みと識られるようなものを用いることが流行していた。それは寄せ集めの見立て灯籠では到底完全な工芸美を備えたものは出来ないことを充分に知っていたからであろう。
 外露地の謹厳、内露地のグロテスク(怪奇)それを石灯籠によって対照し、その美を自分一人で味うだけでないとすれば、当時の人が和敬静寂を如何に求めていたかが推察されるであろう。

―日本石材工業新聞・昭和40年4月15日号より―

七、数奇屋と廃物利用

 現在、数奇屋建築と言えば贅沢を尽くした建築という意味となるが、村田珠光が庵の扁額に掲げた数奇の二字とは全然反対となっている観がある。人には誰でも好き嫌いがある。物数寄と言えば普通の人の好まぬものを好む時に用いる。生死の間をさまよい、浮沈みの甚だしい一生の人を数奇の生涯と言うこともある。数奇とは不揃いの意味である。
 数奇屋は佗住居の表現であるから、木曽の官材とか阿里山の総桧というのではなく、棕櫚(しゅろ)でも煤竹(すすだけ)でも楓(かえで)でも猿滑りでも材料は自由、十本が十本全部違っていてもよい。そういった資材を用い、その加工は鉋(かんな)をよく研いで滑べ滑べに削るよりも、古材そのままでもよく、割りっ放しでもよく、手斧目(ちょうなめ)などは最もよいとされていた。
 茶室の広さは柳営九坪の四分の一、つまり四畳半以下がよく、二畳台目などと言うものもある。茶席の入り口は船艙(せんそう)の入り口の引き戸の技法を用いて躙(にじ)り口と呼び、樵夫(しょうふ)の囲炉裏を小さくして炉を開き、禅寺で祖師に献茶する茶堂に準じて茶道口、貴人口を設けている。屋根は草葺きで、天井には網代、竹などを用いて変化をつけ、窓は小さいものを多数造って、或は丸く、或は長く、各々その形を変え、そこには木舞(こまい)を見せることがあり、或は荒く、或は細かくしたものもある。窓につける障子も一々形と用法を異にしている。
 それは六窓庵、八窓庵などのあるのを見てもわかるであろう。数奇屋の今一つの特徴は多くの水平材の中に同じ高さの木材を用いないことで、すべて段違いとなっている。   数奇屋は以上の如く変化の限りを尽そうとしたもので、この小さい建物の内には農山漁村は勿論、禅庵の趣きをも取り入れた多彩の趣好をこらすのが習わしである。

 次は廃物利用について注釈を加えたい。廃物利用と言えば一見不用品の活用としか考えられないようであるが、今仮に手水鉢を求めようとして、探し廻って見ても変ったものがあるわけのものではない。ところで手水鉢に用い得るものは何かないかということになると、藪の傍に転がっている米つき臼の苔むしたものも捨て難く、古石塔の塔身の中には仲々面白いものがある。石造物の風化したものなどは、鋳造の新しい丸鉢や、陶器などに比較して何とも言えない親し味を感じる。
 手水鉢に石造物の多いのはこれがためで、廃物利用とは用途に対して目的物の選択範囲を無限に拡大する意味である。
 ところが、実用に立脚した廃物利用の選択は、大は小を兼ねる、で甚だ簡単であるが、織部や志野以上に美的価値のあるものということになると、仲々手に入らないものである。それが灯籠や数奇屋と対照して、釣り合うか、釣り合わないかということになると甚だ難問題となる。
 白紙を叙(の)ベて希望の形を図面に画く、ここまでは出来るが、新しく作ったのではどうしても周囲と調和しない。この心境はすべての宗匠の経験したところであろうが、その苦心の経過を書いた文献などは見たこともない。千利久が蹲踞の水孔を寒ぐために、呉呂太石数個を置く時、どんなに工夫しても、工夫すればするほど人為的になって、自然の姿にならぬので一層のこと目かくしをして置いたらどうかと言ったことがあるが、目かくしをして人為を離れようとしたところなど苦心の状がよく現われている。こうなると自然物だか、人工だか、区別がつかなくなる。お茶を習うということは、こういった美を生み出すことにも通じる。
 これ等のことを考え合すと、廃物利用による美的構成は、新しくさえあればよいという創作よりも本当に意義があり、価値もあることがわかるであろう。そのつもりで材料を集めて置いて、植木屋と一緒に庭を作る。その醍醐味は、やって見た人でないと会得されないであろう。

―日本石材工業新聞・昭和40年3月15日号より―

六.外露地と内露地

 お茶を喫する際に、唯普通の座敷で呑むだけでは興味がない。香道でも案内状は出していたので、知己の招待による訪問の形を取った。屋敷の細長い露地を郊外に見立て、暫く進むと枝折戸がある。枝折戸は友人の宅の門でこれから外は外露地、内は内露地である。枝折戸を入ると飛び石伝いに蹲踞まで進む、ここで手を洗い、口をすすぐ。ここに置く灯籠が鉢前の灯籠で、この灯籠の風情が庵の主の教養と趣好の見せどころであった。
 外露地は郊外の風情であるから、そこに建てる灯籠は例えば奥の院の参道にでもあるようなものがよく、献灯の具であることがわかっても、格好のよい閉寂の感を生じるものが望まれていた。その間の事情は彼の「茶話指月集」に「近きころより石灯籠の大振なるが晴嵐陰雨に年経たるを庭にうつして見物とす。たまたま寺社の旧迹遠山深林の中に有る尋ね、禄を厚うして望む人少からず」とあるのでもよく当時の事情を知ることが出来る。
 これに依って見ても、石灯籠の観賞が古物の蒐集から出発していることと、侘びとさび、つまり閑寂の境地を求めていたことが推察される。
 郊外を通って親友を訪ね、枝折戸を開いて飛び石伝いで進むと侘び住居が見える。先ず蹲踞で手を洗い口をそそぐのであるが、そこの蹲踞と石灯籠との組み合せは、その庵主の審美眼の深浅、宗匠の能力を示すところである。内露地の庭の主眼店がきまると、そこだけの問題ではなくなる。外露地と内露地との比較、数奇屋との対照個々の資財の選択、仲々面倒なことになる。

―日本石材工業新聞・昭和40年3月15日号より―

五.戦国時代と茶湯の勃興

 茶の湯の勃興は現代の競馬、パチンコの流行と同様、競技による賞品獲得から出発している。先ず香道と言って、三種の香を五回焚き、それを聞き分ける競技が行なわれた。次に闘茶と言って宇治製であるか、その他の製造であるか所詮本末を競ったものである。濃茶の式がそれで、一碗の茶を何人かで味わって、宇治茶かどこかと呑み分けたもの、それは当時の社会情勢を反映したものであった。
応仁の乱後、世は乱れて群雄各地に割拠し、互いに隣国の領地を窺う弱肉強食の時代となった。当時、領主達の平和はその周囲の領主の武力の均衡だけによって維持されていた。それは水上に浮かぶ泡ぶくが周囲の小泡を合体する如く大領主は小領主を並呑するので、当時の人々は互いに他を信じることが出来なかった。それ故、或は結婚政策により、婚姻関係を結び、或は人質等を取って保証せしめたが道徳は行なわれず、各自の生存の前には他の犠牲などは問題ではなかったので、自分一人の修養によって安心を得ることは出来ないで、薄氷を踏むような生活を余儀なくされていた。
この戦々兢々たる時代に生活して、不安なる心の空虚を満たすものは、称名念仏によって後生の安穏を願うか、禅的修業によって諦の意義を極めるか、氏神に祈願してその助力を求めるか、茶道によって隣人との親睦を求めることなどしか心のやり場がなかった。一般的傾向から言うと、多数の庶民は称名念仏により、武士階級は禅的修業により安住の世界を求め、或は氏神を祭って武運長久と子孫の繁栄を祈り、茶道によって文化生活を味わいながら、清浄礼和をモットーとして信の生活を求めて居た。利休の頃は和敬清寂をモットーとするようになったので、賞品目あての競技から出た茶道は、次第に向上して、遂には政治にも利用されるようになった。

―日本石材工業新聞・昭和40年3月15日号より―

四.神社に捧げられた石灯籠

 仏教伝来以後、仏殿に捧げられた灯籠は、平安朝の終り頃になると神社にも捧げられるようになった。わが国の神社は祖先崇拝から来ているので、仏殿と同様に捧げられたが、神社の主なる祭りは夜間にも行なわれていたし、従来明松を用いたところに灯籠を用いたため、始めて照明の意味を備えるようになった。それで夜灯から常夜灯となり、遂には秋葉灯籠の如く、灯籠が主尊よりも大きなものとなった。
照明器具ということになると、美的形態などは問題でなくなり、行路安全が第一で、観賞的価値あるものは甚だ少なくなった。
灯籠を伽藍内に用いたのは南都六宗だけで、天台・真言・になると護摩を焚いたため、灯籠の用がなく、鎌倉時代の新興の宗派においては、伽藍内には灯籠の用がなくなったので、灯籠は専ら神社だけに用いられるようになった。
それがため仏具として招来した灯籠が神前専用となり、従来の灯籠は仏前形と呼ばれるまでに衰退してしまった。
この時勃興し始めたのが茶の湯で、石灯籠の新用途は実に茶道によって開拓されたということが出来る。総べての生活様式は著しく変化しているので昔のままを保存しているものはないと言ってよかろう。

喫茶でも味覚の上から言えば抹茶以上のものがいくらでもある。お手前や作法を拝見しても窮屈なばかりという人もある。それらに比較すると、その当時の茶人が苦心した石灯籠の新しい観賞法などは最も現代に活かし得るわけである。この意味において、茶道の先達が最初にこれを利用し始めた経過を回願するのも無益ではあるまい。

―日本石材工業新聞・昭和40年2月15日号より―

三.銅灯と石灯篭

 大仏殿前の金銅灯籠は一見火袋が大き過ぎて、そのままの姿を石材で造ることは出来ない位の比例になっている。しかし、これを印度の焚き火台の上に中国漢代以降の宮中用灯籠を置いた姿と見れば、その火袋は透し金物で造った籠であるから誠に軽快で、当時は絹布を張っていたことを思えば、全体の均衡、細部の装飾、至れり尽せりで、一点の非難の打ちどころもない美術的な構成である。
この灯籠は現在は青銅色に錆びているが、当時は全部黄金色に輝き、五彩に色どられた大伽藍の中心で、太陽のような存在であった。
それではこの灯籠は誰の設計でどうして出来たかと言うことになるが、それは伽藍の設計者であることは勿論、その原型を製作して鋳型を造り、鋳造して仕上げて箔を置くということになると、当時造仏所長官であった国中連公麻呂を総指揮官として多数の技術者を総動員したものであることが推察される。
奈良に行って大仏殿を見ない人はないであろう。この灯籠は非常に名作で、大仏殿の建築など、唯この灯籠の背景となる位のものである。それを多くの人は見落している。ところが本当に美を理解しようとする人には、灯籠の基部が石柵のために陰れて全景及び環境を観賞することは出来ない。
この灯籠を本当に観賞するには理想を言うと、保護施設が見えてはよろしくはない。鉄柵があっても邪魔になる。この灯籠に限らず、どこの灯籠でも少し名のあるものは皆石柵のために全体の姿を観賞し難くなっている。観賞の出来ないような保存は、保存しないと同様とも言える。
最高の理想は人間教育の徹底であるが、それが出来ぬとすればその次は造園家が古の伽藍を充分に理解し、灯籠に触れないで観賞し得る方法のある事を示すような、試験をして見てはどうか。
今一つはこれを観賞する人が灯籠の見方を知ることである。石灯籠に何故宝珠がついているか、笠に何故蕨手がついているか、火袋に何故長押を表現しているか、それを理解した上、各部が風化して形が不明になったとき、それはもはや灯籠ではなく、アブストラクトの彫像と何等変りのないものとなる。この彫像を裸婦の石造と比較するとき、始めて本当の彫刻というものがわかるであろう。

  無数と言ってよい石灯籠の中で最高のものは何かと言われると、それは東大寺法華堂(三月堂)前のそれだと言うことに躊躇しない。どこの庭でも見られる例の春日灯籠はこの系統のものであるが、灯具でもなく彫像でもない存在が庭の主要なる位置を占めていることは、何としても不思議と言わねばならぬ。

―日本石材工業新聞・昭和40年2月15日号より―

二.灯篭の形とその由来

 仏教が中国に伝わると、献灯の儀式もそれに付随したわけであるが、灯具としては中国には古くから立派なものがあったので、印度の焚き火台の上に中国古来の宮中用の灯籠を置いた。その形が灯籠の基本的の形となっている。
幸いにわが国には灯籠としては最高の作品、東大寺大仏前の金銅灯籠のようなものが遺存しているので、それによって作者の意図を充分に窺うことが出来る。
大仏殿前の灯籠を見ると、頂上には宝珠があり火焔が盛んに燃えているのを、満開の蓮華で受けている。

 宝珠の下には天蓋(てんがい)がある。天蓋は仏の日傘であるが、これをその下の火袋と同時に見れば、その形は御即位式の高御座に似ている。高御座の屋根には鳳凰がついているが、鳳凰は帝王玉座の存在を象徴し、上に宝珠あれば下に御座のある標識となる。
東大寺別当良弁僧正の厨子もこの火袋と全く同じ構成である。火袋の壁面には四方に音楽を奏する菩薩の像を薄肉の透し金物にて表現し、四方の火口には仏教守護の獅子が飛び廻っている。

 中台以下は印度の拝火教の焚火台と同形であったが、仏教では仏像の台座と同様、受花返り花等で装厳するのが法成である。この灯籠の竿には「献灯品」を彫刻している。これ等の装飾を見れば、灯籠を仏知の象徴として崇敬していることが了解出来るであろう。

―日本石材工業新聞・昭和40年2月15日号より―

一.聖火奉献

 わが国の灯籠は仏教伝来の際、献灯の具として伽藍建築に付随して、大陸からその製法を伝えたものである。灯籠と言えば誰でも直ちに照明を想起するのであるが、大伽藍での儀式はひる間に行なわれるので照明の必要はない。全く儀式のための設備であって、その点はオリンピックの聖火と大変よく似ている。

 オリンピックの聖火は聖火たることを示すためにギリシャのオリンピアから駅伝で運ぶ伝統があるのに対して、灯籠はその器形の上に崇仏の精神を表現する伝統がある。
仏教は印度に起こって中国に伝わり、わが国に伝来したものであるが、印度には今われわれがもっている概念のような灯籠はなかった。わが国の天台・真言の二宗では護摩を焚いて修法している。その護摩即ち焚き火は印度では仏教興起以前から拝火教の本尊として礼拝していた。

 古代印度では一切の生き物を灰じんとする火の偉力を神と信じ、天界における太陽、地界における火神アギニは婆羅門教では最高神として崇敬し、神に供物を捧げる場合、肉でも酒でもこの聖火の中に投じて奉焼し、眼前で神の受納を見て、特別の恩恵に浴することを希願していた。火力は光と熱と香の三つに分つことが出来る。これを奉献する器具から言うと、火炉から灯炉と香炉が出来ることとなる。印度では香も非常に尊重されていた。

 拝火教では火力を神として崇敬していたが、仏教では光明を仏智の象徴として仏前に供養するようになった。

―日本石材工業新聞・昭和40年2月15日号より―

著者プロフィール

池上 年
明治23年生まれ。昭和元年に岡崎石造美術研究所を創設。石造美術研究者として、優れた石造品の実測模写・復元をし、伝統を明らかにするとともに独自の石造美術の設計・制作に尽力してきた。東京都赤坂離宮にある御苑形石灯籠はじめ数多くの著名作品を残している。現在は池上勝次氏が石造美術研究所を継承している。

■岡崎石造美術研究所
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TEL0564−51−1362
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